鏡城のTさん:

 私は母が住んだほとんどの地、台湾高雄、日本高松、中国東北部撫順、ハルビン、延吉、石頭、瀋陽、日本佐世保、等に足を運んで作品を作ったが、今回ターゲットにした「朝鮮咸鏡北道鏡城」についてだけは未踏である。昨今ニュースで北朝鮮が報道される度にテレビにかじりつき、ああこの辺で母は生まれたのか、と想像するばかりだが、ここで10年以上も前にTさんという方からいただいた鏡城の資料のことを書いておきたい。

 Tさんとの出会いは、2004年9月に開いた銀座ニコンサロンでの「台湾高雄1928-2003」という個展だった。ある日のこと、中央テーブルに置いた資料ファイルを熱心にご覧になっているご老人がいらっしゃった。その方がTさん。Tさんは展示作品の写真の中の家を指差して、「私はこの家の隣に住んでいました!」とおっしゃった。それは「1924年、朝鮮咸鏡北道鏡城にて、生後百日の母を抱く」という作品で、等身大の大画面の奥に祖父一家の自宅である官舎が写っている。

 Tさんは会期中に何度か会場に来られた。会期後にはこちらからご自宅に遊びに行った。Tさんは昭和3(1928)年光州生まれ小学校1年生(1935年)から5年生(1939年)位まで鏡城に住んだ。母たちが鏡城に住んだ時期より10年ほど後。父親は鏡城の高等普通学校(朝鮮人中学校)数学を教えた。私の祖父は国語漢文を教えた。

 Tさんは戦後日本に引き揚げた後に集めた鏡城や朝鮮の思い出の資料を披露し、私に譲るとおっしゃった。鏡城小学校の同窓会誌、機会あって鏡城近郊まで訪問した時の私的記録、雑誌、地図、小説、等々。

 その後2012年8月の展覧会までは毎回お見えになった。2015年11月の個展にはお見えにならなかったが、今回の個展は鏡城がテーマなのできっと来てくださるだろうと思っていた。しかし、どうも残念なことになってしまったのだ。産経新聞の記者の方が取材に来られて、Tさんを紹介したいと思い連絡を取ったが、電話も手紙も通じないことがわかって愕然とした。お嬢さんがおられると聞いていたから、そちらに移られたか、それとも・・・。

 私はTさんから託された鏡城の資料やお話の記録を後世に遺す責任があると思っている。Tさんの消息に心当たりのある方は是非ご連絡ください。

2017年8月6日
笠木絵津子

Tさんにいただいた資料の一部

上) 1940年頃の朝鮮半島の地図
右上) 1966年の雑誌に掲載された鏡城の南門の記事
右下) 「鏡城小学校同窓生の集い」会報

BACK