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 今回の「時空写真」は舞台が満州である。歴史は「満州」を偽満州国と断罪しようが、そこに住んでいた人たちはさまざまな生活を当地で営み、それぞれがさまざまな年月を蓄積していたのであり、公式的な「歴史見解」でそれらが全て清算できるものではあるまい。
  作者が投げかけてきたものは重い。「満州国」の成立の経緯は単純なものではない。今では中国の東北三省及び内モンゴル東部となりほぼ中国化されている が、かつては明王朝を滅ぼし清王朝を建てた女真族(のちに満州と中国風に名を改める)のふるさとである。清王朝が倒れ中華民国が建国された後も軍閥割拠の 中で実質支配者は北洋軍閥であり、張作霖が実力を持っていた。ロシア、日本の侵略意図が露骨な中で清王朝最後の皇帝溥儀の思惑も絡み、関東軍をはじめとす る日本の侵略政略、馬賊の暗躍、それにソビエト・ロシアなど共産勢力などこの地はまことに複雑な様相を呈していたと言える。
 本作ではかつて満州国設立に向けて謀議がこらされた「旧奉天関東軍司令部」(今は共産党が入る)、や満州国における日本の象徴であった「旧奉天ヤマトホ テル」の満州国時代と現在を表裏のかたちで展示する。「山海関」にいたっては、今は無邪気に観光客が遊んでいるが、かつては漢人中国と女真族を分ける難攻不落の要衝であり、二つを隔てる象徴の場所である。
 2006年姫路市立美術館で開催された「ふたつの時間 ふたつの光」では作品の中で衝突していたふたつの時間とは、私と母の時間であったが、このたびはそれらが合体して笠木粒子となりその重みを増して、観る側 に投げかけてきたように思われる。笠木の言うように作品が莫大なエネルギーを生み出すためには、この投げられた粒子を受け止める観客側にもまたそれなりの 質量が求められるように思われる。それがあって受容・鑑賞に莫大なエネルギーが生れるというものであろう。
 此のたびの展覧会がその莫大なエネルギーが生れる場所となることを祈ってやまない。

(注)228事件
 日本の敗戦後、入れ替わりに台湾に入ってきたのは(大陸で国共内戦を戦っていたため)、質の悪い国民党軍であった。1947228日に台北市で起き た事件(闇タバコ販売)をきっかけに、その統治に反発した台湾人は国民党軍と衝突、国民党軍は大陸からの応援を得て、台湾人ことに日本の教育を受けた学 生・知識人を徹底的に弾圧・虐殺した。その死者数万といわれるが今もその実数は不明である。長くこの事件はタブーとされてきた。


* この文章は、2010年4月に東京のトキ・アートスペースで神戸ビエンナーレ展示作品を再展示する際に書かれました。

「時空写真」展に寄せて


越智裕二郎
兵庫県立美術館学芸員



 私が初めて台湾を訪れたのは、1991年春のことであった。国民党の敷いた戒厳令が4年前に解かれたとはいえ、まだ重苦しさが残る一方、台湾人総統李登 輝氏が新しい統治政策を開始、希望が見え始めた頃でもあった(台湾に言論の自由が保障されるのは翌1992年)。台湾で活躍した石川欽一郎という明治初年生ま れの洋画家(幕臣の息子)の展覧会開催のため訪れた台北市立美術館で、合わせ見ることができた台湾の近代洋画家、日本画家の大量の絵画に私は衝撃を受けた。そして石川欽一郎は日本では知る人ぞ知る洋画家だが、台湾では西洋画を伝え、当時日本人が羽振りをきかせていた台湾にあって親身に台湾人子弟を育て、今なお慕われ黒田清輝並みに著名であるということを初めて知る。また石川欽一郎が育て、民族意識を持って優れた絵画を描いていた(台湾洋画家の最も優れた作家の一人)陳澄波(チェンチェンポー)は、日本と入れ替わりに入ってきた国民党軍により228事件(注)を象徴するように嘉義駅頭で銃殺され、優れた画家の未来が閉 じられたことも知った。
 このようなかつて日本と関わりのあった東アジアのニュースや報道は日本では小さく、現地での事象と日本での報道・情報の落差は思いのほか大きい。日本の論壇も、戦前の反動のように一部の論者を除いては思考回路からも捨象されているようだ。
 笠木絵津子の作品もかつて日本が関わった東アジアの地を作品の題材として取り上げる。それは彼女が母の死後、大量に残された、自分の知らない土地に写る 母の写真に衝撃を受け、かつて母が住んだ土地を訪ねる旅に始まったという。2006年の展覧会(姫路市立美術館)「ふたつの時間 ふたつの光」では、過去と現在の風景写真を交錯するように配置、家族写真の中の祖母やおばをコンピュータにより自分に入れ替えながら、かつて当地で母たち が暮らした思いやそこでの関係を作者自身がトレースするというものである。それは声高なイデオロギーでもなく無媒介な郷愁でもなく、母、肉親を通じてのか つての土地の記憶、いわばかつての土地に胚在した関係の表象である。